2017年8月20日。
雨ばかりに苛まれたこの年の夏の終わり、僕は大好きな横浜を歩いていた──。
異国情緒と歴史に彩られ、数々のランドマークを抱くこの街は、まさにロマンの街と云っても過言ではないだろう。
横浜駅にひしめく現代的な雑踏、桜木町からベイエリアへと広がる華やかな世界、伊勢佐木町の庶民的な商店街や、野毛や黄金町に漂う、仄暗く猥雑な空気──。一口にヨコハマと云っても、沿線の町は何処も強い個性を放ち、光と影が互いを強め合っている。物語の凝縮された都市だ。
地元から観光に来た友人は「まるで外国に来たようだ」と評したが、おそらくどちらの国の出身者でも「外国に来た」と感じるのではないだろうか。人々の果て無き強い願望が創り出した街は、優しく、狂気的で、よそよそしい。つまり、遠い。
今も随所で新たな歴史を刻み、作り変えられていくこの街を目の前にしたとき、限られた時間しか持たない我々は、誰もが異邦人でしかありえないのだ。
そんな横浜あるカフェもまた、尊い星の光を数えるほどに、語り尽くすことはできない……。
しかし今夜は誰もが認めるであろう北極星を紹介したい。
山下公園のシンボル「HOTEL NEW GROUND」──
日本のクラシックホテルの代表格とも云えるニューグランドホテルは、洋食文化史の担い手でもあり、ここが元祖とされるナポリタン、シーフードドリア、プリン・ア・ラ・モードは伝説の3品としてあまりに有名だ。また、お酒好きな方には、粋なバー「SEA GUARDIAN」もかけがえのない場所であろう。シェリー酒を使った貴重なマティーニ「マティーニ・ニューグランド」などが愉しめる。人の歴史はまさに食の歴史でもあることを実感できるホテルである。
そんなホテルのカフェ、その名も「The CAFE」は、明るく清潔感のある木のテーブルと、窓の向こうに浮かぶ山下公園通りの並木と海が印象的な空間である。育ちの良い喫茶店のお手本とでもいうべき存在だろう。
残念ながら「コーヒーハウス」というわけではないので、珈琲の銘柄や淹れ方にこだわったお店ではない。ところが、恭しいサービスや豊富な幅広い食事メニューは、どんなに気難しいコーヒーマニアも、なんとなく丸い気持ちにさせる。
「此処は、こういう場所なのだ」
贅沢な雰囲気に、ただ、身を預ける。
そしてなんとなくケーキを注文しようとすれば、席までサンプルを持ってきてくれるのだが、この瞬間がたまらない。プレートの上に煌めくアートの数々。あなたはそのとき、おもちゃ箱を開けた子供のような顔をしている。
この日、僕はクラッシュゼリーの美しさに魅入られて、ライムとシャンパンのムースと、アイスコーヒーを注文した。
トップに飾られたミントとフレッシュライムが、またなんともいえない大人のバカンス感を生み出している。
この年の夏はジメジメと不快なことが多かったが、この空間だけは現世から切り離されていて、涼しく、ただひたすらにさわやかなのだ。
クラッシュゼリーのぷるぷると舌に吸い付く無邪気さ、はじけるライムソースの酸味を、シャンパンムースが甘く優しく包み込む。そして最後には、やはりライムの微かな苦みがまた近寄ってくる。寄せては引いて。まるでカーテンを揺らして部屋に忍び込むそよ風のようだ。実にバランスがよく、これだけで本当に完成されている。
しかし、あえて、ここでアイスコーヒーをごくりと飲む。
すると、どうだろうか。
都会を横切る一陣の風のように、はっと我に返る。うまい。ザ・アイスコーヒー。これは、どうも舌が研ぎ澄まされる気がするぞ……。
また、ムースへ。そしてコーヒーへ。風は波を呼び、波が風を作り出す。絶えることのない清涼感だ。
チョコレートやチーズケーキのように、珈琲と溶け合うケーキも美味しいが、完全に独立したふたつの要素が、互いを引き立てあるというのも、喫茶の面白さである──。
束の間の至福が終わった。
会計を済ませ、また街を行く。
夕刻が近づき、空は仄暗くなっていた。月曜日の近づき、やれやれという気分だ。しかしふと指を鼻先に近づけると、そこにはライムの香りが灯っていた。